福島県飯舘村から長沼町へ


北海道で描く新しい農業

 

 福島から北海道に避難し、新たな農業を模索している青年がいる。菅野義樹さん(34)。昨年4月に計画的避難区域に指定され、全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村が故郷だ。現在、長沼町のメノビレッジで働く菅野さんに飯舘村への想い、今後の展望を聞いた。(文責/堀武雄)

 

「までいライフ」の村に放射能が降って来た


 福島県飯舘村は、「までいライフ」をスローガンに住民自治に取り組み、住民参加の村づくりを進めてきた村だ。女性村民を海外視察に送り出す「若妻の翼」事業や、村の総合振興計画の策定段階から村職員と住民が協働するなど、村民全員で「まかせる村づくりからかかわる村づくり」へと邁進していた。「までい」とは「真手(まて、まてい)」。「手間ひまを惜しまず」「丁寧に」「時間をかけて」「じっくりと」「つつましく」という意味。「食い物はまでいに食えよ」「子どもはまでいに育てろよ」と使う。

 菅野さんは、18代続く旧家の跡取り息子として、飯舘村で生まれ、育った。専業農家を継ぐべく、酪農学園大学で学び、自由学園の那須農園で働き、5年前に帰郷。一昨年には結婚もし、本格的に農業に取り組もうとしていた矢先の原発事故だった。

 事故後、妻・美枝子さんの実家に避難。子どもを授かっていることが判り、学生時代に研修先だった長沼町のメノビレッジから「一緒にやらないか」と誘われたこともあって、7月に北海道に避難してきた。11月には女の子が生まれ、親子3人で暮らす。

 だが、菅野さんの胸のうちは複雑だ。4月上旬のメノビレッジからの誘いも最初は断った。代々引き継いできた土地。「そんなに簡単に飯舘村を諦められない。最後まで見届けたい」からだ。だが、一方で、それまでに広範囲な土壌の放射能汚染が明らかになり、さらに水も汚染が進んでいることがわかってきた。「私の親は理解があって、2〜3週間、嫁の実家に避難して様子を見ろと言ってくれました」と菅野さんは言う。とりあえずの避難だったが、その後、全村避難が決まり、帰村は叶わなくなったこともあって、長沼への避難を決めた。

 それでも「移住」を決めたわけではない。「とりあえず1年間、長沼でお世話になることにしました」。賠償問題がまだ解決していない。賠償指針の提示も3月の予定がズレ込んでいる。その中、菅野さんは「何もしないでいるよりは、1年間有機農業を学ぼう」という選択をした。

 

「誰かが飯舘村の土地を守っていかなければ」


 原発事故直後、大手メディアから十分な情報を得られないこともあって、ツイッターやSNSを通じて事故情報を得ていた。そのうち飯舘村で高い放射線量が計測されたこともあって、「早く避難してください」という応答が増え、そのうち浜通の飯舘村から中通にも放射線汚染が広がっていることが報じられ、福島に対する批判が増えていった。「子どもを逃がさないのは母親失格だ」などと罵倒する書き込みさえあった。さらには、春の植え付けを始めた農家には、「毒物を売るのか」「お前らは被害者ではなく加害者になった」などの激しい批判が書き込まれるようになった。

 なぜ被害者である福島県民が批判されるのか。菅野さんはこれを「心災」と呼ぶ。地震・津波は天災、原発事故は人災、その後に起こった被害者への「心災」。善意の情報提供であっても、「だから早く避難して」との呼び掛けは、現に福島に住んでいる住民からみれば、今住んでいることそのものを否定されるのに等しい。それが福島県民を苦しめていた。

 福島からいち早く避難した人たちと避難しなかった人たちとの間にも分断と対立があった。「なぜ避難しないのか」「逃げるのか」。放射能に対する認識の違いが生んだ対立だった。

 飯舘村にも分断と対立があった。「2年以内の帰村」を訴える菅野典雄村長と、新天地への集団移住・新村建設を目指す村民との対立。戻りたい人と戻れると思えない人、元々の飯舘村民とIターンしてきた人・・・それらがメディアで大きく伝えられ、さらに対立が深刻化するという事態。それがまた村民の不安を掻き立てる。不十分な除染の後、帰村すれば、補償がなくなるのではないか、という疑念も募る。

 菅野さんは言う。

20代の農業後継者が『誰かが飯舘の土地を守っていかなければならない』と言うんです。管理しなければ農地は10年でダメになります。自分の土地は先祖から譲り受けた土地であり、先祖の血や汗が滲んだ土地です。私たちは自然や土地に生かされている、そういう謙虚な姿勢が現代人には欠落していると思います」

 福島の人たちの多くが避難しないのは、郷土心と経済的な問題があるからだ。「ですから、『なぜ避難しないのか』と責めるのではなく、福島の人たちの気持ちに寄り添ってほしいんです」と菅野さんは言うのだ。

 

「菅野牧園再建」を夢みて新たな一歩を北海道に記す


 菅野さんが考える理想の農業の姿がある。それを自給的畜産経営と呼ぶ。

「飯舘村の菅野牧園では放牧、自給乾草で牛を育てていました。今、配合飼料の価格が世界的に高騰していますが、輸入配合飼料をなるべく使わない畜産をやりたいとずっと思っていました。人間の食べないクズ麦やクズ大豆などを与える。和牛の場合、短期間に太らせないと市場価値がないので、配合飼料が必要ですが、赤肉生産などでは乾草とエコフィードで十分。北海道はその点、非常にポテンシャルが高いので、私が理想とする農業ができる場所だと思います。確かにハードルは高いと思いますが、配合飼料は10年前の1・5倍に値上がりしており、放牧する土地基盤があれば十分可能だと思っています」

 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)下ではどうか。

 「農業生産だけでは規模がないと対抗できないと思います。ヨーロッパの中山間地の農家には農業の多面的価値を消費者に伝えるような、農家レストランやファームイン、農業体験などが義務付けられているそうです。日本ではそうなっていませんが、農業者や行政の中にも同じ考え方を持つ人がいます。私は残りの人生で、そういうことを北海道でできたらいいなと思っています」

「農業者だけでなく、食べること、暮らし、生きるとはどういうことかを見つめなおすときに来ていると思います。原発事故で飯舘村から北海道に来ましたが、福島にとどまって除染のビジネスで生きるという選択肢もありました。しかし、それはいやだった。農業を続け、農業の価値を消費者に提示していきたい。原発事故の後、自分たちの暮らし方を見つめ直してほしい。そうでないと被害に遭って故郷を追われた人たちの苦労が報われませんし、不合理な被害に納得ができません。飯舘村は電源立地交付金ももらわず、平成の大合併でも住民投票で合併しないことを決め、自分たちの暮らしは自分たちで創造していくという覚悟で村づくりを進めてきました。そこに放射能が降って来た。神様も酷いことをすると思いますが、飯舘村には『俺たちがやるからできる』『俺たちで問題を解決する』という気概があります。私は農業を続けることで同じ気持ちを共有し、暮らしを作っていきたい。その一歩を踏み出すことがほかの人の一歩につながってくれたらいいと思っています」

 菅野さんは今、長沼町のメノビレッジ長沼で発酵堆肥に取り組んでいる。メノビレッジは、1995年にレイモンド・エップさんが創立。CSA(Community Supported Agriculture=地域で支え合う農業)と呼ばれる産消提携に取り組んでいる。同じ地域に住む農家と消費者が共に農業の恵みとリスクを分かち合う新しい産直システムだ。菅野さんはここで有機農業を学びながら、「いつの日か、私たちの子孫が飯舘村に帰り、菅野牧園を再建してくれることを夢みて」新たな一歩に備えている。

 

(『月刊ISM』2012年5月号収録)




*当サイトに掲載されている記事・文章・写真等の著作権はすべて鰹報企画に属します。

 無断転載は禁止します。

 
 
inserted by FC2 system